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記憶と雨

タチャンカとグラズの話。


【記憶と雨】


昔から好きだったことがある。


それは筆を持ち、真っ白な所に思い思いの色と絵を描くこと。

形に問われず、描いた絵を見せればあの人は笑って『綺麗だよ、グラズコフ』と低く豊かなテノールで褒めてくれたこと思い出す。

絵を描くことは絵を教えてくれたあの人に対しての恩返しであり、自分が自分らしくいられる時だと思っていた。

そう、あの時までは。


***


ウラジオストクにある芸術学校に通っていた時、俺は周りと中々溶けこむことができず、いつも一人ぼっちで絵を描いていた。

この世界は一人でも多人数でも関係ない。より美しく描けるか。それだけの空虚な世界だった。

雨が降る教室に一人ぼっちで居ればあの人は俺を見て優しいテノールで褒めてくれた。

「グラズコフくん、君の絵は綺麗だよ」

「…ありがとうございます」

「もっと君の描く絵を…、君自身を良く見せてごらん?」

そう言ったあの人は俺を教室のボロボロな机の上に押し倒して無理やり犯したのだ。

…初めて犯されたのはそう。

 

雨が降る夕方、14歳の時の話だ。

 


それから毎日人目を盗み、あの人は俺を呼び出しては犯していく。心が壊れてしまうくらい激しく、意識が無くなるまで俺を抱いては愛し気に口づけを落としていく。

「もっ、やだっ…」

「嫌だと言うのなら少しは抵抗をするんだ。グラズコフくん、君は将来有望なんだ。私の言うことを聞いていれば間違いはない」

「苦しっ、もう、絵なんて描かないっ、こんなのは…」

「君は私から逃げられはしない。鮮やかな絵を君が絵描き続け陶器のような色白の肌を見せ続ける限りはね」

そういうとあの人は容赦なく俺の中で穢らわしい精を嬉々とした表情で吐き出していく。

もうこんなことなら俺は…

大人を信じない。

自身を見てくれた大人に裏切られたのだから俺はもう二度と。

人を信じず、そして絵も描かないと誓った。


16歳、初夏のことだった。

 

それから数年が経ち俺は芸術から離れ、ロシアの特殊作戦部隊「スペツナズ」に所属していた。

かつて筆を持っていた手には狙撃銃・ドラグノフ

色白な肌を隠すためのフェイスペイントを施し、身を潜めていた。ターゲットは国に仇なす者。

そう、かつて俺を犯したあの人だ。

反旗を翻し、テロリストの巣窟に身を沈めたあの人のことを資料で見た時に俺は思ったことを言葉として漏らしたのだ。

「因果応報だね、俺の唯一の好きだったことを取り上げて全てを無茶苦茶にした報いを受ければいい」

その場に居たのはタチャンカだけだった。タチャンカは何も言わず俺の頭をただ優しく撫でてきた。

あぁ、タチャンカの手は大人の手だ。

その時感じたのは嫌悪感でも無ければ喜びでもなかった。

…ただの安堵だった。

俺はスコープを覗き、躊躇せずに引き金を引いた。額に見事貫通した狙撃は綺麗だった。

俺の人生を、
俺の居場所を、
そして俺の心を壊した報いを…。

「地獄で味わうといい。…もう二度、あなたを思い出しはしないよ」

真っ赤に流れ出る血がこんなにも綺麗だと感じたのは初めて絵の具に触れたあの日以来の感動だった。


***


タチャンカは俺を部屋に呼び出して嫌悪感を露わにして口を開いた。

「…私情を挟んだよな」

「だから何だ?」

「…悪いな、今日のターゲットの事を少し調べたよ。ウラジオストクの芸術学校で教師をしていた男だそうだ。お前の恩師だそうだな」

「…あんな奴が恩師だって?笑わせるな」

「グラズ、お前の過去を深く追求したりはしない。だけど今日の任務でのお前は異常だ。はっきり言って狙撃ポイントすれすれだった。…民間人を巻き込む所だったんだぞ」

あぁ、この人も俺に対しては優しくしてくれないんだな。

もう、何もかもどうでもいい。

「…だから何だ?」

「お前にドラグノフを握る資格は無い、グラズ、少しは大人になれ…」

タチャンカの言葉に俺の中の何かが切れた音がした。

「…あんたに何が分かる?!14歳の頃あの人に犯されてからずっとずっと俺は我慢してきた。取り柄だった絵も、色白な肌も、全部全部あの人のせいで嫌いになった。16歳の頃トラウマから人を信じられなくなった。俺の人生をめちゃくちゃにしたあの人を殺したのは俺だ。殺せたのも俺だ。何が悪いんだ!」

タチャンカにありったけの怒りをぶつけた。

これが八つ当たりだってこともわかってる。

「…少し、冷静になれってんだ」

気が付けば乾いた唇が重ねられ、話そうとしていた言葉も息も全部止められてしまった。

「ん…、んぐっ…!」

「少しは落ち着いたか?…グラズ、前を見ろ。後ろは見るんじゃない。…お前は一人ぼっちの芸術家じゃない、毅然と振舞え、立派な軍人なのだから」

唇を離されればタチャンカは俺を見つめながら呟いた。

外から雨音が聞こえてくる。

「…大人なんて糞ったれだ。だけどあんたは違うのか?」

「信じるか信じないかはお前次第だ、グラズ」

雨脚はどんどん強くなって窓を叩きつけていく。あぁ、俺に答えろと言うんだな。

タチャンカ、俺は大人ってのを信じてもいいのか?

結局は全て自分次第なんだろう?

いいさ、応えてやるー・・・


「タチャンカ、俺はー・・・」

 

雨音に掻き消された言葉の真意にあんたなら気づいてくれると思ってるよ。

俺はもう、過去を振り返りはしない。

この曇天の空の下であの日に似た雨を見つめながら誓ってやるよ。